松道流の系譜



 このページでは、流派紹介で触れた伝承の流れについて、当流に伝わる口伝と、巷説や伝聞の類とに分けて、少し詳しく述べたいと思います。

 当流は、大先生が兼相先生から伝授された無比流、浅山一伝流、兼相流の長所を取り入れ、更に創意を凝らしたカタを持つ流派です。

 兼相先生は伝書から旧水戸藩士であり、無比流十二世であることは判明しています。

 しかし、兼相先生が郷里で印可を相伝されたかどうか、私どもに立証する証跡は残されていません。親子や故知の間での伝承に、伝書があったかどうかもわかっていません。

 浅山一伝流については、大先生が稽古しているところに、兼相先生が「継承者のいない知人がいるから、行って流派を継承してきてはどうか」と言い、大先生に出向かせました。大先生が出向いたところ、先方はまったく同じカタをやっていたため、ほどなく兼相先生のもとに帰ってきた、との口伝が残っています。その時の出稽古先の先生が浅山一伝流と名乗っていたため、浅山のカタとワザを兼相先生は持ってらしたとわかりました※¹。兼相先生が浅山一伝流の皆伝か、師範であることを立証する証跡を、私どもはもっていません。

 従いまして、当流は間違いなく兼相先生の流れを汲み、カタとワザを継承していますが、諸般の事情から大先生をして、伝承する流派名を無比流、浅山一伝流、兼相流から遠慮して、松道流と新たに名乗ったわけです。

 さらに戦後では、進駐軍による武道の取り締まりが厳しくなると存続するために、松道流は武道ではなくあくまで護身術である、との体裁を成して流派名を「松道流 護身武道」としました。

 以上の流れから諸般鑑みて、私どもは大先生を当流の歴史の開始地点として、約80年前に大先生が創始した当流でカタ稽古を継続しています。

 松道流護身武道は古流であるか、との問いに対し、私どもの伝承と実体験からお答えできることは「当流は非常に古いカタを持つ護身武道」とだけ申し上げます。



 ~松道流護身武道の系譜~

 遠祖 佐々木哲斎徳久(無比流創始) / 浅山一伝斎重晨(浅山一伝流創始)

  (中略)   

 近祖 無比流12世勝武館 館長:武石謙太郎 号:兼相居士/無比流、浅山一伝流、兼相流 等を伝授

    兼相に師事した者は渡辺清作、増渕廣吉、増口義十郎、松本貢ほか多数※²

    松本貢は昭和癸未秋に兼相より古伝武道の印可(無比流杖術、無比流居合術、兼相流柔術ほか※³)を賜り、

    のちに総じて松道流を名乗り、武号を兼久とした


 松道流護身武道創始 松武館館長:松本貢 武号:兼久/無比流13世、浅山一伝流23世、兼相流等を相伝 

    兼久より師範免許を許されたものは野川栄一ほか多数

    兼久より印可相伝及び武号を授かったものは以下の通り(順不同):

    松本保男武久/山本弘典久/鈴田芳雄繁久/石原貢和久/伊坪純一光久/正木明照久/真間嘉人道久/宮崎利男慈久

    

 2世宗家 松武館2代目館長:松本保男 武号:武久/無比流14世、浅山一伝流、兼相流を相伝

    武久より師範免許を許されたもの多数

    武久より印可相伝及び武号を授かったものは以下の通り:

    野川栄一相久/冨田和博石久/松本圭司行久


 3世宗家 松栄館館長:野川栄一 武号:相久/無比流15世、浅山一伝流、兼相流等を相伝

     相久より印可相伝及び武号を授かったものは以下の通り:

    (兼久から数えて4世):青山英明謙久



~松道流の歩み~

 3世宗家の武歴をたよりに、当流の歴史を以下のとおり申し上げます:

 ◇昭和56年4月 入門

  宗家:初代館長 松本貢兼久

  主な弟子と門人:松本保男武久(兼久の実子)、松本尚樹(兼久の孫)、山本弘、鈴田芳雄、真間嘉人、伊坪純一、石原貢、大崎清さん、大内〇、正木明、斉藤謙三、菱科光順、佐江衆一、野川栄一、冨田和博、中村〇、佐藤建、石川〇、宮田〇、河内〇、

 

   ◎初代館長の時代に独立した弟子は以下の通り(順不同):

     ‐真間嘉人道久(武真会館)

     ‐石原貢和久(創武館)

     ‐正木明照久(円流)

 

 ◇昭和61年1月 菱科光順、佐江衆一とともに、松道流藤沢支部から円流に移籍

  

 ◇平成13年9月 兼久逝去

  宗家:初代館長 松本貢兼久

  主な弟子と門人:松本保男武久、伊坪純一光久、宮崎利男慈久、松本圭司、金丸〇、有賀丈史、青山英明、大橋奈々


 ◇平成14年1月 武久が2世宗家と2代目松武館館長を継承

  宗家:2世宗家 松武館2代館長 松本保男武久

  主な弟子と門人:伊坪純一光久、宮崎利男慈久、松本圭司、青山英明、大橋奈々

 

 ◇平成15年9月 2代館長の要請により、相久、冨田和博と本部道場に帰参


 ◇平成20年6月 松武館の稽古日は2世宗家の健康状態により月水木金から、水金の二日制に変更 

  宗家:2世宗家 松武館2代館長 松本保男武久

  主な弟子と門人:伊坪純一光久、野川栄一、冨田和博、宮崎利男慈久、松本圭司、青山英明、大橋奈々、深谷〇、松永重巳、高山乾一、大崎〇さん、赤間〇、横山〇、白井混、原田〇、朴柱勲、篠秀夫、森田〇、〇楽、〇こお、

  

   ◎2世宗家の時代で独立した主な弟子は以下の通り:

     ‐宮崎利男慈久(日東武術研究会)           


 ◇平成24年5月 一門を継承

  宗家:3世宗家 野川栄一相久

  主な弟子と門人:冨田和博石久、松波達朗、青山英明、松永重巳、高山乾一、篠秀夫、石井潤、内山廣人、斎藤隆 


 ◇平成25年1月 松武館が閉館する。新本部道場を設立し館号を「松栄館」とした。冨田和博石久が副館長に

   

 ◇平成29年6月 武久逝去、年12月 武久長男・尚樹 逝去

  

 ◇平成30年5月 成都稽古会の設立を允可する

  宗家:3世宗家 松栄館館長 野川栄一相久

  副館長:冨田和博石久

  主な弟子と門人:

   ‐本部道場:松波達朗、青山英明、松永重巳、高山乾一、篠秀夫、石井潤、内山廣人、斎藤隆  

   ‐成都稽古会


 ◇令和4年4月 皆伝及び師範免許を取得して7年後の青山に印可目録を与える。贈る武道家名を「謙久」とした。


 ◇令和4年12月 古武道ボディワーク倶楽部の設立を允可する 

 

 ◇令和5年10月 推せんにより大日本武徳会の高段者審査を受け、八段 範士の号を贈られる 


 ◇令和5年12月 推きょにより大日本武徳会 武道執行専門委員 を拝命する

 

 ◇令和6年1月1日 令和時代初となる昇級昇段審査を執り行う

  本部道場より新二段が2名、成都稽古会より新五級が5名うまれる。成都稽古会は支部に

  宗家:3世宗家 松栄館館長 野川栄一相久

  副館長:冨田和博石久

  主な弟子と門人:

   ‐本部道場:松波達朗、青山英明謙久、松永重巳、高山乾一、篠秀夫、石井潤、内山廣人、斎藤隆 

   ‐成都支部:黄 方シン、楊 翰林、譚 先翼、陳 一コン、王 大維 ほか

   ‐東京稽古会


(以降、順次作成中)



当流の系譜に連なる史料を下記の通り、一部公開します:


 ↑ 昭和58年3月、松道流松武館の館長と館員

  前列は左から、正木明、松本貢兼久(館長)、大崎清、松本保男;

  後列左から、〇典子、〇泉、刈部〇、冨田和博、野川栄一、斎藤謙三、佐江衆一(記念撮影を提案しカメラを持参された)


↑大先生時代の館員証。当時は入門を許されると与えられました。兼相先生の教えが大事に記されています。

(モザイク部分は当時、大先生が当時用いたお印です)


↑大先生時代の領収書。落款には松道流護身武道松武館とあります。

(モザイク部分は当時、大先生が当時用いたお印です)


 ↑ 当流藤沢支部開設後、兼久ご夫妻が視察に訪れたとき。

  中央に兼久、向かって右隣りの着物姿の女性が奥方;

  奥方の右隣りは時の藤沢支部長・照久。照久の右隣りでスーツ姿の男性は山本弘典久;

  前列左より2番目、胸に松道流の徽章が見えるのは鈴田芳雄繁久、同3番目に佐江衆一、同4番目に菱科光順;

  2列目で胸に松道流の徽章が見えるのは野川栄一;


↑平成14年、武久が松道流宗家・館長を襲名した祝いの席にて。

 前列左より、胸に松道流の徽章が見えるのは伊坪純一光久(名誉六段)、大橋奈々、松本保男武久(松道流2世宗家)、正木明照久先生(当流を相伝したのち円流を創始)、菱科光順さん(円流・発起人の一人);

 2列目左より、宮崎利男慈久、松本圭司(のちの行久)、松波達朗(のちに柔體道稽古研究会・活真塾を創始)、佐藤順子さん(円流);

 3列目左より、中村〇(当流の居合を中心に稽古した)、蔵並隆二さん(円流)、青山英明(のちの謙久)、野川栄一(円流師範、のちに本部道場に復帰し印可、名誉六段を経て、3世宗家を継承した)、渡辺〇さん(円流);


 ↑ 先代・武久より当代・相久へと一門引継ぎを行ったときの一枚。


 歴史の回顧は語るに尽きませんが、当流の切ないところでもあり、このあたりで割愛したいと思います。


(※¹:大先生が出稽古で浅山流をご教示頂いた先生は複数名居られたと思われます。相久が受けた口伝では読み書きができない方で、本業は鋳掛屋だったそうです。大先生は23世と名乗る時期もありましたが、私どもは証跡を持っていないため、若先生以降は明記を遠慮しました;

 ※²:口伝では清水謙一郎先生、坂井宇一郎先生などの先生方も当流の伝承に深く関与されたとありますが、私どもは証跡を持っていないため、系譜欄から割愛しました;

 ※³:大先生が兼相流目録の4巻目である治療法の薬方を書いてもらう前に、兼相先生が急逝したため、伝承上の証跡は武道のみです)