つれづれ稽古メモ
せっかく当流のHPをご覧になったのに、道場訓のためカタの解説やワザのヒントを申し上げられず、私どもとしてもいささか心苦しく思っています。
そこでこのページでは、稽古中の「気づき」や「出来事」や「思い出」をいくつか載せることといたしました。
ご覧になり、なにかご自身の稽古のヒントになれば幸いです。
流派継承とその流派を育てる館(やかた)
1 若先生(武久)の思い
松道流の継承式直前、若先生は私に「松道流は松本家そのもの」、「よって継承は行わない」と強く云われた。私は「はい」と答えた。「ほんのちょっと前まで若先生は継承を認めていたのに」と不思議に思った。理由は直ぐに、若先生の「不安を煽った者の存在」であると判明した。
その後、若先生のお気持ちに変化があり、私は松道流護身武道三世宗家として継承を許された。
松武館の閉鎖に伴い、道場を創設する運びになった旨若先生にお伝えしたところ、若先生から「道場名は松武館ではないでしょうね」と強い口調の問い掛けがあった。道場名は「松栄館」ですと答えると、若先生は安心された。その時、「松道流」と「松武館」の合体が「松本家」そのものであると理解した。
2 尚樹(貢久)さんの思い
ある時、大先生(兼久)のお孫さんの尚樹さんから、「おじいさんの武道を騙っている者がいる、看板を外させるので同行して欲しい」と連絡があった。私は同行を承諾した。大先生は兼相先生の「勝武館」で武道を学ばれ、兼相先生が亡き後は兼相先生の奥方と稽古を継続された。
奥方が帰郷し勝武館を再開させたいとの思いに遠慮して、平塚に移り住んだ大先生は松が密集する地で、松武館を創設し流派を松道流とした。道場を建てる際には、「勝武館」を名乗らず「松武館」とし、流派名は「兼相流」の名称を遠慮し「松道流」を名乗られた。
尚樹さんが云われた「おじいさんの武道」とは、「松武館=勝武館」と「松道流=兼相流」で構成される「松本家」そのもので、大先生の息子さんとお孫さんの心情の一致を、私は実感した。尚樹さんと同行する予定の行動は、尚樹さんの病気の進行で行くことは無かった。
3 私(相久)の思い
私の思いは、「松道流護身武道」と「松栄館」が一体となった姿で「100周年を迎えること」です。その思いを実現させるには、改めて「館員心得」を読み解く心の醸成が必要であると思った。「習いたる わざをみだりに表すな 己が命の瀬戸際にせよ」の文言を原則に置き、新たに「公(おおやけ)」の心法を加味する。武道の本来の目的、それは我々の武道に伝わる伝統に裏打ちされた「型」と「技」から得る英知であり、良き社会づくりを可能にする心法を醸成する。その先に恒久的な世界平和の実現へと繋げたい。「日々の稽古の継続」を第一歩として、淡々と歩んで行きたい。
松道流護身武道松栄館 三世宗家 野川栄一相久
令和七年一月吉日
令和七年度の昇級昇段
令和7年1月吉日にて、本部道場で門人の高山さんに三段と、教士の許しを証す免状を授与しました。
また、本年は高山さんの入門20年目の節目の年でもあります。
松道流護身武道 三世宗家 野川栄一相久
稽古納めアレコレ
1-資料から史料へ
本部道場は24日で稽古納めをしました。今年で資料整理を一段落させる、と勇んでいましたが、やってみると大先生のノートの整理は体術が終えて、杖は浅山の12箇条の中盤まで。映像化は体術の地の巻中段までがやっとでした。2025年こそは!と思います。
もっとも、三世の40代の頃の映像資料は保管済みです。25年に60代の資料撮影を完遂させ、あとは80代の頃にもう一度、撮影する約束をしました。20年おきの表現形式の進化を次世代に残せれば、と思案しています。
2-木刀を折る
東京では知人の紹介で仕事仲間の武道好きと稽古しています。最近はMBAをとられた自営業の方が何回か体験稽古ののち、杖と鞘付き木刀を購入し本腰を入れるようになりました。おろしたての木刀をもって向詰三段で切り合うと、第2動で相手の木刀を叩き切ってしまいました。意図しない事故ですが、昔の先生の教えで「90度振り下ろせばお前の腕ぐらいは落せる」との言葉を思い出しました。あながち大口ではなさそうだ、と体感しました。年明けに木刀を贈り、折った木刀を小太刀と小具足に改造しようと思います。
3-地道な稽古
川越稽古会では12月28日今期の稽古を終えました。3期1年半かけて、杖、體、剣の3法の基礎動作と、杖は2手、體は3手、剣は向詰三段を教示申し上げました。ボディワーククラスですから決め方よりも、からだの使い方、動きの伝習に重きを置いています。地道に体得していただけるのは嬉しいものがあります。
4-古武道ネットワーク続々と
成都支部は1月下旬の旧正月連休を重視していますが、元旦前後では相変わらず稽古しています。中国では日本の古武道が数流派進出しているらしく、連絡を取り合って伝承の真偽を確認したり、歴史考証が盛んにおこなわれているようです。当流の支部長の黄から連絡があり、某流派の発起で、中国における正当性ある古武道流派の連絡先一覧を作成し公開するため、宗家の決めポーズを撮影してほしいとの依頼を受けました。これまでも流れを一とする他流と比較して動きの違いや伝承について質問を受けることが多く、海外の方の方が、見る目が厳しいようです。
5-兼相流の検証の続き
流派名に続いて、中身の検証を身体記憶的な側面からアプローチを試みています。武道史的には、綿谷雪先生が考証され、曰く:富田勢源(中条流)と上泉秀綱(新陰流)から学ばれた戸田清元が戸田流を起こされ、2代目清元の戸田越後守綱義(戸田流)の高弟、薄田隼人兼相が兼相流柔術と無手流剣術を起こされたとしています(武芸流派大事典P122)。異説では富田景政(中条流)に学ばれた富田越後守重政(中条流、名人越後)の弟弟子である長谷川宗喜(長谷川流、心極流)の弟子、戸田新八郎が戸田無敵流を開き、のちに兼相流、無手流に変化したのではないか、ともあります。
私どもが稽古しながらカタとワザの整理をしていく過程でわかったことは、まず體術では継承している天地人3巻と別伝のうち、天の巻のカタと地の巻上段の方の一部が、現存する浅山一伝流体術の地の巻のカタ名と一致していることが挙げられます。また当流の押込は兼相先生が抜粋され、地の巻上段の対拳銃のカタは大先生が時流に応じ創作された、との口伝があります。
ならば地の巻中下段、人の巻中下段、居捕はもしかすると、綿谷先生のご考証通り、兼相流と無手流の末流を兼相先生が習われたかもしれませんが、私どもは証跡を持っていないため、なんとも言えません。
ただ身体感覚的なものから申し上げると、当流の押込以降のワザは、からだへの負担が大きく厳しいワザが厳しいままに伝わってきています。対し天の巻はわざとカタを複雑化し、恣意的に肉体強化を図る意向を感じられます。
仮説ではありますが、兼相流と似た浅山のカタの一部を兼相先生からならい、普及の可能性を高めるために大先生がからだへの負担が限定的でかつ体を練るに適した浅山のカタを、当流の体術を構築するにあたり、冒頭に据えたのかもしれません。
どこまでが古伝の兼相流なのかは、松道流を継承する私どもでは現時点で断言できるものはありません。しかし訓練法の観点で見たとき、先達方々が苦慮された痕跡は確実にみられました。
謙久
令和6年12月30日
そこはテンかマルか
2020年度から当流の資料整理を始めました。
はじめて見ると資料、データや散逸した資料の量が膨大であり、宗家を中心に各人の記憶を頼りながら、資料の掘り起こしやデータ化を試みています。
そんな中で、大先生が遺したノートのデータ化と補完を2021年頃からスタートさせました。大先生のご遺品で私どもにとっては貴重な思い出とはいえ、いわゆる世間一般がいう秘伝の類ではありません。大先生が松道流として流派名を改めるころ、兼相先生から学ばれた3流派のカタの整理や、大先生なりのカタの解説が筋書きのかたちで記録されたものです。
子供の頃は意にも介さない、道場奥の電話台の下にタウンワークかなんかと一緒に放置された代物です。しかしデータ化をはじめると、大先生の「文字」から学習するものも多々ありました。
ひとつは「字がくだりによっては躍動している」ことです。大先生は杖、剣、柔いずれもこと細やかに筋書きを描かれましたが、殊に杖に関しては、筋書き・動き・解説と三段階に分けて大量の文字資料を遺してくれました。
柔のパートでは、現代にいたるまで口伝が主流をしめるため、筋書きはどちらかというと骨組みに止まったものです。しかし杖のカタを整理する最中で、かなり崩れた「落」の字や、何度も消されては書き直した字がありました。また文が前後して句読点の使いがくずれ、殆ど句を止めずに、読点が続きました。
過大解釈かもしれないが、14万字超をデータ化し尚作業中の編者としては、筆者(大先生)が筆を杖と見立て、躍動するこころや筋肉を押えなんとか、筆先を通して紙に仕手受手の切羽詰まったカタの「流れ」を押し留めんとする興奮が伝わってきます。
句点なのか読点なのか、記録された動作よりも「気配り」の終結なのか「一段落」なのかを示す、筆者の心の動きを示すものであるように感じます。
原作を整理するにあたり、文末はテンなのかマルなのか、筆者の苦悩の痕跡を含め一字一句、編者のバイアスを掛けることなく、筆者の熱量をありのまま、後世に残しておきたいものと考えます。
謙久
令和6年立秋の日にて
当流の先輩方の思い出⑦
石原貢和久さん
昭和56年私が松武館に入門した時には、石原貢さんにお会いする機会はありませんでした。石原さんは、ご自身の道場(柔術拳法創武館)をお持ちになり、徒手格闘技を中心にご活躍されておりました。
石原貢さんとの接点は、大先生(松本貢兼久)が武号を許された折の拳法の模範演武に、私が石原さんの仕手(技を受ける役割の者)を務めたことです。石原さんの技は、徒手格闘技で培った鋭い切れ味のある素早い技であり、私は必死に受身をとっていたという記憶があります。二つ目の接点は、私の職場の先輩や後輩が石原さんの創武館道場に通っていたことです。先輩との会話で近況も話題となり、「身近に感じる先輩方」の一人となりました。また、石原さんの中華店に何回か伺いましたが、お会い出来なかったという記憶があります。
令和6年6月1日 相久
当流の先輩方の思い出⑥
正木明照久さん、菱科光順さん、佐江衆一さん
ここに一つの石があります。
松道流藤沢支部の夏合宿の折、持ち帰った石で40年程、私と暮らしています。
“金(きん)がある“ “こっちこっち“ と急がすのは菱科さんでした。金を指差し、皆がそれに呼応し金色の石を拾う。冷静に“違うよ金じゃない、○○だよ“そんな声は耳には届かない。
その様子を楽しんでいるのが正木さんでした。
正木さんと菱科さんは同じ年齢の友人で、松武館には一緒に入門された杖術の私の先輩です。
正木さんと佐江さんは藤沢から道場に通われていました。佐江さんが“地元でも稽古をしたい“と正木さんに懇願され、藤沢支部が興されたのです。正木さん、佐江さん、菱科さん、そこに私が加わり、支部の骨格ができました。
正木(仕手)さんと菱科(受手)さんの杖術は、菱科さんの柔らかさが特徴で、演武会では、型どおりに留まらない自由な型が見られました。一方、正木さんと佐江さんの杖術は、鋭い気合いと激しい動きで死闘そのものでした。ある時、お二人の演武をご覧になった香取神道流の杉野嘉男先生、先生からのお褒めのお言葉に、恐縮されるお二人の姿が思い出されました。
令和6年5月21日
相久
(↓は昭和50年代後期の松道流藤沢支部の日常の一コマから)
2人の思い出
昭和56年に松道流に入門したての頃、松武館の奥の稽古場で杖術の稽古をしている2人がいました。
すごい気合で杖・木刀を叩く音が響いていました。気合に押されて、大先生(松本貢兼久)との稽古が一時的に中断することが多々ありました。
のちにその先輩たちが松道流最高師範で円流の創設者の正木明さんと、作家で代表作『黄落』等たくさんの著作がある佐江衆一さんであることを教えていただきました。その後2人の稽古の姿は何度も見ることになります。
令和6年5月21日 石久
杖と言えば
旧本部道場の名札欄の右下側だったかと思いますが、幹部欄がありました。
ぼくの記憶が正しければ、順に山本先生、石原先生、鈴田先生、真間先生、正木先生、伊坪さん、野川先生とお歴々の名前が連なったと思います。
若先生時代には、宮崎先生が加わり、いっとき松本(圭司)さんが副館長をされました。
先日、稽古会で杖を指導していると「杖といえば正木先生が一番で、昔は大先生をして『正木さんの杖は兼相先生瓜二つ』といわしめた」と、口にしました。
口にしてからハッとしました。
しまった!先生から武号もらったのに、幹部の先生に報告してない!
となり、三世に相談したところ、
しまった!武徳会から範士八段もらったのに、正木館長に報告していない!
となり、三世から急ぎ正木先生に連絡をいれ、挨拶に伺う日程の段取りをしました。
正木先生はたいそう喜ばれ、杖の一本でも見せられればいいね、とおっしゃってくれました。
当日、円流明鏡館に伺うと、正木先生が大事をとられてこられず、副館長の蔵並先生と、古参メンバーの松崎先生と三世が懐かしそうに話されました。
また円流方々の稽古を見学させて頂き、私どもにとっても大いなる励みとなりました。
帰り道にどうしても正木先生のお加減が気になり、ご自宅を訪ねました。我々の心配をよそに正木先生は矍鑠しておられて、絵画の創作に集中されておられました。
正木先生からの飲みの誘いに、うっかり乗っかろうとした僕を制した三世と帰り道に、正木先生のご年齢について注意を受けました。
ずっと三世が40代半ば、正木先生は70代手前のつもりで接していましたが、もう20年の歳月は過ぎていたのです。
大先生時代の幹部で表立って指導されておられる方が、いよいよ正木先生だけとなりました。
謙久
令和6年5月18日
三世のお供で正木先生宅をお尋ねした帰りにて
↑幹部の正木先生のご厚意により史料として、大先生が発行した最高師範証と、浅山一伝流の印可状を正木先生が創始された円流のHPより引用・掲載いたします。
令和五年度の昇級昇段
令和6年1月1日付けで、本部道場お二人に弍段免状を授与しました。お二人は10年以上の修業年数で、稽古継続中です。お二人の共通点は段位にこだわらず、型に備わる不思議な世界を歩んでいるようです。
また成都稽古会からは5年目にして昇級者がうまれ、稽古会から支部となりました。
令和六年吉日
相久
当流の先輩方の思い出⑤
宮崎利男慈久さん
宮崎先生は若先生、伊坪さんとともに、僕に武道の基礎を授けて下さった大先輩です。90歳を過ぎた大先生は、宮崎先生が室町時代の武僧・念阿弥慈恩と同じ地域のご出身であることにちなんで、贈る武道家名を「慈久」としたそうです。
宮崎先生は幼い頃より武芸十八般のほか、浪曲などの伝統文化も嗜まれた見るからに豪傑な方でした。とくに合気道と柔道の天分は凄まじく、前者は植芝四天王の一人・斎藤守弘先生の直門、後者は警察署の少年柔道教室で師範を務められました。豊富な武道経験を活かし、当流を指導される際はよく合気道の動きと比較をしながら、大先生から厳しく注意された基礎動作を入念に教えてくれました。
また若先生が館長襲名をした祝宴のおりに、当時は明鏡館で指導された野川先生を指して「あおやまお前体術で聞きたいことあるならよく聞いておけよ!この人は俺と違って大先生最後のお弟子さんなんだから!」と、当時ではまだまだ門閥の観念が残る時代に、3世と白帯の僕を引き合わせてくれた方でもあります。
宮崎先生から教わった杖、剣の素振りや腰の落とし方は、稽古会で基礎鍛錬の一環として、次の世代に伝えています。
令和六年正月にて
謙久
新年にて
明けて令和六年辰年になりました。
まずは、被災地の方々にお見舞いを申し上げます。
思えばテクノロジーの進歩がすさまじいもので、高校生の頃まではポケベルが最先端でしたが、あっという間にスマホになり、緊急時の連絡がスムーズに行えるようになりました。
それまでは、はがきで暑中、寒中を見舞ったり、文通で安否を気使ったりしたものです。
昨年中に3世や石久先生が資料整理をされ、色々な史料が出てきました。
中には、大先生や若先生との、年賀交換の一部もありました。
いつもは神社にかえすものですが、一部でも私どもの手元に残されたのには、なにか役割があるのでしょう。
もう、ご存じの通りかと思いますが私どもが継承している武道は、商売道具ではありません。
水戸藩士が藩校でならい、東京に出稼ぎの際に余暇で伝え、その教え子がまた家と併設した道場で地元民に伝えたモノです。
そこにはビジネスライクなやりとりにない、濃密な時間とやり取りの中で、手から手への、カタを通してワザが伝わってきたように思います。
令和六年正月二日にて
謙久
松道流八十周年を迎えて
昭和十八年に松道流創始者の松本貢兼久(大先生)が、平塚市松風町に松武館を創設してから本年で80年目となりました。
戦後の武道禁止令に対して大先生は、松道流を護身武道として生き延びさせるなど、数多なる難局に対峙するなかで多くの門弟を育ててきました。大先生のご長男の松本保男武久(若先生)は、 2代目として大先生の武道を引き継ぎ、松道流に生き続ける術技を絶えることなく守り、育てられました。3代目を期待された若先生の長男・尚樹は、病気などの理由から継承を断念し、大先生の弟子であり若先生の弟子でもある私に、松道流の継続を託されました。
紆余曲折を経て、3代目は私が継承し、松道流は絶えることなく80周年を迎えることができました。松武館は閉館されたため、私は老松町に松栄館を設け100周年を迎えるべく日々稽古と指導を継続しております。
松道流は柔・剣・杖の三位一体を本懐としています。これは武道の身体操法を現代の社会生活に活かし、よりよく暮らす身体づくりを目的の一つにしているからです。
令和4年5月、大日本武徳会に松道流は入会が許され、柔術部門に所属しております。令和5年10月1日、平安神宮奉納演武大会において奉納演武を行うと同時に高段者審査にて、私は八段 範士に合格しました。
大日本武徳会範士八段の称号を汚さぬよう、日々の稽古に精進して参る所存です。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
令和5年10月吉日
松道流護身武道松栄館 館長 野川栄一相久
大日本武徳会の審査結果
令和5年10月1日、当流三世の野川が段位受審の機会を賜りました。
體術を演武した結果、大日本武徳会 範士(柔術) 八段 を拝領しました。
節目の年にて
令和5年は、当流にとって様々な意味で、節目の年にあたります。
当流の祖師の一人・遠祖の佐々木哲斎徳久が「無始無終」の悟りを得て、流派を開いたのは慶長8年(1603年)頃とする説があり、史実であればちょうど今から420年前にあたります。
当流の祖師の一人・遠祖の浅山一伝斎重晨が霊夢により開眼し、流派を開いたのは天正16年(1588年)頃とされる説があり、史実であればちょうど今から435年前にあたります。
当流の祖師の一人・近祖の兼相先生が館号を勝武館(しょうぶかん)と定め、道場を開設したのは明治41年(1908年)です。ちょうど今から115年前にあたります。
そして、当流は大先生が館号を松武館(しょうぶかん)と定め、3つの流れを一つの名称にまとめた昭和18年(1943年)に創始されました。ちょうど今から80年前にあたります。
このほか、新本部道場「松栄館」設立10周年、成都稽古会設立5周年の節目の年でもあります。私事ながら、入門25年目の節目でもあります。
節目の年も、教示する稽古を続けていますと様々な質問を受けます。なかには、考えたこともないような質問もあり、その場では言葉を詰まらせ、ゆくゆく精査したものもあります。
代表的な難問をひとつ紹介すると「松道流とはなにか」と問われたことがあります。
とっさに答えたのは「400年間蓄積された3つの流れの先人の集合知を伝える場所」でした。松道流はかつて「松道流」と「松武館」がワンセットになっていたからです。意味を精査すると「3つの流派の略称」と「伝える場所」になるかと思います。3世に聞くとやはり時代の変遷を語られ、しかし結論は「松道流は略称だが、松武館は松本家」の一言でした。
旧本部道場に付随するように、大先生、若先生、若先生のお子さんたち、お孫さんの住居が据えられてあったのです。住居に付随する道場、ではなく道場にくっついたような家でした。殆ど家伝に近い地域伝のかたちで、松道流がつたわってきたのです。
巷では「古伝〇流派を伝える●●館」のイメージが定着しているかもしれませんが当流の場合は、〇流派をひとつの略称「松道流」にまとめ、●●館は家でもあるため、館号は属人的なものだったのです。
従いまして「松道流とはなにか」という問いに対し、今思えば「大先生というフィルターを通して伝わった古伝3流派の略称」というのは誤りで、正しくは「大先生、若先生を含めた先人の集合知(ワザ)を体現した古伝3流派や創意工夫されたカタの総称」と改めて思う、この頃です。
3世とこないだ大先生の最晩年の剣について、議論したことがあります。大先生の最晩年のいわば変化カタを厳守したい3世に対し、僕は大先生の剣のカタも、2世の剣のカタも、3世のカタも、同じ体の使い方の流れにあれば、それぞれの表現形態に微細の違いがあっても良いのでは、と進言しました。
もちろん帰り道には3世の変化カタも、メモに残しました。
大きな流れに乗じて一滴また一滴と、流れを変えることなく知のしずくを足していければと思います。
令和5年寒露の夜にて
謙久
稽古相手がいなくなる
「他人の芸を見て、あいつは下手だなと思ったら、そいつは自分と同じくらい。
同じくらいだなと思ったら、かなり上。
うまいなあと感じたら、とてつもなく先へ行っているもんだ。
―――古今亭志ん生」
伊坪さんの技を稽古メモに残してから、3世としばし思い出話に花を咲かせました。
武道家名と称号を贈られた後、多くの先生が独立をされる中、伊坪さんは最後まで旧本部道場を守り、後進を指導して下さいました。
つい6-7年前まで伊坪さんの技と3世の技は根幹が一緒で効き方が似ており、とくに地の巻、人の巻になるにつれ、相似の程度が高まってきたなーと思っていました。
しかし師範免許を許して頂いてから、3世のワザを受けさせて頂く際にいくつかのカタに変化があらわれ、妙な違和感が残るワザが新たに出現しました。ちょうど最晩年の大先生に猿投げを掛けて頂いたときに感じた違和感と、酷似したものです。
伊坪さんはなぜ、この技を当時の僕に教えてくれなかったのだろう、と3世に聞くと「それは子供への優しさだから。これも大先生の教えで、稽古相手を大事にする、なぜならそうしないと稽古する相手がいなくなるから」とのコメントをもらいました。
程度を見て丹念に育成する「うまい」師範のあり方について今更ながら、気づかされます。
まだまだ先は、とてつもなく長いようです。
謙久
令和五年八月
当流の先輩方の思い出④
伊坪純一光久さん
大先生は門人を呼ばれ、「今度入門した野川君と冨田君です、こちらの方は杖術の達人の伊坪さんです・・・」、と話されました。伊坪さんは、「君らは体術でしょう、今度稽古しましょう」と云うと戻って杖を振り始めました。当時の伊坪さんは会社帰りに道場に来られ、杖の一人稽古を力強く行うとさっと帰られました。
1980年代の体術の稽古で思い出に残るシーンがあります。天之巻中段之位の丸身の三本目です。この技は仕手が右手で受手の右手首を捕ります。受手は左足を斜め後に引くと同時に右手首を時計回りで立てます。引いた左足を肩の付け根方向に出し肘を押さえ右手首を掴み返し後ろへ引き倒すのです。さらに、右手首を極めて終わります。肩関節、肘関節、手首関節にダメージが残る技です。伊坪さんの掛ける技は、速く引き、速く出し、速く引き落とす、一連の動きが強烈な技でした。仕手の私の手首、肘、肩各関節は極まったのです。
また、2010年代に伊坪さんと稽古をしていた謙久も同じ経験をしたそうです。変わらぬ「極まり技」が世代を超えて出現したのです。この稽古で受身は格段に上手くなりました。
相久 令和五年八月
伊坪さんのノウハウ
伊坪さんは大先生の初期のお弟子さんであり、僕の啓蒙の師の一人でもあります。武道家名は「光久」と言い、いつもニコニコして控えめに話される方ですが、ワザは強烈でした。
僕が道場見学をした折に技を掛けて下さり、そのまま僕に当流への入門を決心させた方でもあります。
僕が入門した1999年頃は、2世と伊坪さんと宮崎先生が道場におり、大先生はたまにですが、道場に下りてこられました。振り返ってみると指導者に恵まれた時期でした。
その頃は、学校が終わるとすぐ道場にいきました。
まずは1時間ほど受身や一人で杖をやり、5時半頃から2世に居合、立合、組太刀、小太刀の稽古をつけてもらいます。6時半頃に伊坪さんが来られ、少し杖でならされてから一番の楽しみの柔術の稽古をつけてもらいます。
当時は2世から新たに1-2手を習っては、すぐ伊坪さんが稽古相手を務めるという、2人の師範が習い手1人につくような、大変贅沢な稽古の仕方を経験しました。おそらく僕のあと、このやり方を経験できたのは、大橋さんだけだと思います。
ガキでしたから習ったワザにすぐうずうずしてしまいます。力いっぱいに伊坪さんにかけると、伊坪さんにも思いっきり掛けられます。当時50代とは思えないほど、気力がみなぎった技でした。
柔術の稽古も地の巻上段になったころでしょうか。稽古後に伊坪さんと雑談していると、大先生の思い出を語ってくださいました。
「あるときね、急にね先生がみんなを集めていうんだよね。今道場で力技を掛ける人がいる、それは邪道だ!ってね。それね、今思うとあ!俺のことなんだ」と、僕を見ながらニコニコしておっしゃいました。
その頃、のちに3世になられる野川先生に日曜の特訓をお願いしていました。伊坪さんに掛けたような技を3世に掛けるとやはり驚かれ「そんなんだと稽古相手がいなくなってしまう!こうだよ」とよく注意され、矯正されたものです。
今こうして思い出を書いている途中でも、伊坪さんの猿投や打込、逆背負、天狗返、無刀取が走馬灯のように目の前をよぎり、肘、肩、首の付根が疼きます。
僕も教える立場になり、あの頃教わったノウハウがしみじみと甦ってくる年になりましたよ、伊坪さん。
謙久
台風7号が上陸する前夜にて
当流の先輩方の思い出③
大崎清さん
昭和56年4月、私は冨田さんといっしょに松武館に入門しました。大先生から、「有名な作家の先生」(佐江衆一さん)と「出稽古に行っている門人」(大崎清さん)のお話がありました。大先生は道場に関わる出来事は逐一館員にお話しくださる館長でした。
大崎清さんとの思い出について、入門直後の私には大崎さんに会う機会はありませんでした。出稽古先から戻って来られた折にお顔を拝見しただけです。
松道流藤沢支部の夏合宿に大崎さんが招待されました。ブドウ園では、カゴいっぱいにブドウを摘みニコニコしていた大崎さんがいました。その合宿を通し大崎さんと雑談する様になりました。また、このころ、数回演武会がありました。松武館館員が演武会に参加するなか私もご一緒しました。演武会で絆も生まれました。
ある時、大崎さんから、「古武道団体に加盟するから野川君も来ないか」と声を掛けられました。声を掛けられ素直に嬉しく思いました。が、先輩の方々からのアドバイスもあり大崎さんに、「このまま松道流にいます」と丁重にお伝えしました。紆余曲折を経て、現在、私は松道流護身武道の推進役の一人として日々の稽古に励んでおります。
相久 令和五年八月
はなむけの杖
~2009年3月、武僧に負かされ落ち込む謙久に、相久が送ったアドバイスより~
『道は無限にあり、その道を真似る必要はありません。自分流の道を、模索し、構築し、追い求めるならば、それが一番だと思うからです。結果として、名が残ったとしても、それはそれ。要は、武術に対する熱意が支配する世界を己で築くことができるかどうかの世界観をいかに持続し、真摯に向き合えるかで、この問いを自らに課した場合の生き様なのでしょう。 生き方、思い、稽古法、いまのまま歩むことが最善であると断言します。一時の迷いは、更なる進歩の麻疹のようなもの。まだ、悩めるんだと、素直に喜んでください。大いに、悩みましょう。なぜなら、未来は必ず味方になってくれるから』
からだも人生も、なかなかどうして、儘ならないものです。
社会でもまれいるうちに知らず知らず、ダメージが蓄積し「くせ」が形成してしまいがちです。
ダメージの蓄積が個のキャパシティの限界を超えると、いろいろな歪みやひずみが発生してしまいます。 社会活動の不調はこころに悪影響を与えるケースや、からだに悪影響を与えるケースが現代社会では頻発しています。
しかし、逆もしかりで、からだの不調がこころや、実生活に悪影響を及ぼします。
先日、3世が杖を表現のツールとして、駆け引きの稽古をつけてくれました。運動量は通常の指導時よりむしろすくないものの、気が付けば汗がバッと吹き出てきます。のちに、無意識のうちに自分の中で「なにか」が変化して動いたり、動かされたりした部分の解明をしました。昔の伝奇ものに一人で山籠もりして荒稽古をする武芸者が良く出てきますが、やはり一定期間を過ぎると人里に下りてきます。むしろ降りてくるために「ちがうもの」を身に付けに行ったのでしょう。降りて人と試してはじめて、身についたものが検証されます。
稽古で試合やかけためし、野試合を続けると知らず知らず行動パターンや体癖が単純化してしまいます。機械でも同じ歯車の特定の歯を使い続けると金属消耗を起こして、先におれてしまうように、ワンパターンではからだのダメージが蓄積しやすいと感じています。
仕事的にいうと、スキルセットが狭いということです。
対人的にいうと「自分がないと巻き込まれる」ということでしょうか。
体癖を指摘してもらい、さらに適切なチューニングをしてもらうために、師と先達を「かがみ」としてからだを「なおして」もらい、上達をはかりたいものです。
船で例えるなら、なじみの船舶修繕先が要るということでしょうか。
謙久
2023年5月7日
「久」の字と兼相 その二、
ところで、兼相先生は「久」の字を使わずに「兼相居士」と名乗りました。
居士とは、漢籍では在野する男子の読書人とされ、仏教においては在家の信者を呼ぶときに用いるようです。現代の日本では檀家の戒名につける位号との認識が一般的です。兼相先生の書簡からは生前より「居士」と名乗っていることが確認できます。
では「兼相」はどの典籍によるものでしょうか。
まずは糸字の方向で調べてみました。兼相先生の「武石」姓は、遠くは桓武平家であり、平良文を祖に遡ることが出来ます。良文のひ孫の常将は所領に因んで「千葉介」と称し、平家の千葉氏を起こしました。常将から5代後の子孫である千葉介常胤(つねたね)は源頼朝の挙兵に呼応し今の東北4県と秋田県の一部に該当する奥州の合戦で軍功を上げ、陸奥や九州など膨大な所領を与えられました。
千葉常胤の三男・三郎胤盛が、下総国千葉郡武石郷(千葉市花見川区武石)を領して「武石」を称したことで、平家千葉氏武石家が誕生したとされます。しかし、時が下って第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡したことにより、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡しました。重胤は家康に仕えたが、後に浪人となり、一族郎党の中には仙台藩や一関藩に流れた者もいたとされます。
兼相先生は大先生の追憶によると水戸藩勝田村の出とされていますから、なんとなく、流れは合致しているイメージができます。
さて、平家千葉氏武石家に糸字らしきものあるとすれば「胤」と「常」の2字が良く見られていますが、定かではありません。余談ながら、武石氏は鎌倉時代から近江佐々木氏と縁戚にあり、神奈川県箱根町の法篋印塔には「佐々木氏女」とともに「武石宗胤」の名が見られるようです。武石宗胤の妻は「佐々木近江守源氏信女」であり、彼ら夫婦の建立したものでは無いかと推測されています。
近江の出自で九州の大名に仕えた遠祖の佐々木が諸国行脚したとはいえ、なぜ「無比流」が遠祖の生誕地からは遠く離れた関東北部で栄えたのでしょう。凡俗な仮説かもしれませんが、親戚がいて農村は米が、漁村は肴が、庄やには穀物や酒があって町は豊かであり住み着きやすかったから、という極めて人間的な視点で見ることもできるかもしれません。
佐々木氏と武石氏の関連性まで考証したところで「兼相」の号はどうやら、ご出自の系字ではなさそうだ、ということが見えてきました。
では、逆説的に「兼」もしくは「相」を糸字にしている氏はどこか、調べてみました。
結果「相」を糸字につかう氏族はついにみあたりませんでしたが、「兼」は九州は大隅の肝付氏の糸字であることがわかりました。
肝付氏は本来、伴の一族であり、平安時代に伴兼行が薩摩掾(さつまのじょう、国司のこと)に任命され下向したことに端を発します。兼行の孫の兼貞は大隅国肝属郡の弁済使となり、兼行から数えてひ孫にあたる兼俊の代で属地の地名を取って肝付と名乗ったようです。江戸以降では島津氏に仕えて庶流は現代に続くようですが、さすがに水戸藩の兼相居士と関係を示す証跡どころか、痕跡も見当たりませんでした。
ただ、余談ながら大隅半島の肝付町なる町が現存しており「高山各地の春の棒・鎌踊り」と称される伝統行事が残っています。春祭りの一種で波見の住吉神社、野崎の伊勢神社、宮下の桜迫神社を中心に棒や鎌、小太刀などの自衛術を発祥とする踊りです。伝わる武術の流派名は「浅山流」と「真影流」だそうです。
浅山流は私どもの源流のひとつにあたる「浅山一伝流」との関連性はさだかではありませんが、観光協会のHPにアップされたムービーをみると、一部の動きは私どもに伝わる無比流の杖の3本目「引杖」に酷似しています。
もっとも、大正武道家名鑑によると浅山一傳流/一伝流は幕末から戦前にかけて日本全国の津々浦々に師範がおり、名士が嗜みとしたことが多かったようですから、伝承の過程で地場の流派とカタが渾然一体になってもおかしくはなかったかもしれません。
さて、本題の兼相の由来ですが、糸字説はどうも根拠はなさそうです。
3世の推論では「生前戒名」ではないとみています。これは石久先生の信仰ともと深く関与するもので、生きている間に戒名を付けてもらうことを指します。 現代では戒名を死後に付けるのが一般的ですが、本来の形は生きている間に授けられ、信心深さを証明する行為のようです。
このほか、戦国武将の薄田兼相(すすきた かねすけ)が兼相流柔術と無手流剣術を開いたから兼相先生の号と関与しているのではとの巷説もありますが、私どもにいえるのは「証跡がない」ということだけです。
兼相先生の号の由来については、相変わらず推論に継ぐ推論にとどまっていますが、流派の調査を通して教養が増やすのも、武道の楽しみ方の一つかと思います。
相久
謙久
2023年5月13日
「久」の字と兼相 その一、
当流では、修了証書に該当する「印可目録」を授与するとともに、武号すなわち武道家名を先達より贈られることが習わしとなっています。
いつからの習わしかは、定かではありませんが少なくとも大先生の時代から続いているものです。三世は大先生の趣味でもあると言明していますので、少なくとも直近80~100年の習わしとみて間違いはないかと思います。
さて大先生以降は「久」の字を、印可の目印としました。
これは、遠祖の一人で大先生の師匠である兼相先生が落款するときに名乗る「無比流」の開祖でもある、佐々木哲斎徳久に因んだものと伝えられています。
少々懐古趣味が過ぎますが、徳久の「久」の字はどこから来たのか、調べてみました。
中国をはじめとして中華圏の文化の影響をうける東亜および南亜は漢字圏とされ、諱(いみな)という概念があります。
イミナは古代の貴人や故人の本名であり、目上の方や故人を本名(まな)で呼ぶことを避ける習慣は、漢字圏にあったとされています。
まだ、漢字圏では、ご先祖さまのイミナを避ける代わりに、同一血統かつ同世代の者がイミナの中から、特定の字を共有する習慣があり、系字もしくは通字、字輩と称したようです。
日本では「目上の方のイミナに用いられている字と、同一の漢字を用いることがその方の人格に対する侵害だ」とする観念が、他国ほど強烈ではないといわれています。そのため平安時代中期ののち漢字二字からなる名が一般的になってからの日本では「通字(とおりじ)」あるいは「系字」が、かえって一般的になったようです。
系字とは読んで字のごとく家に代々継承され、先祖代々、特定の文字をイミナに入れる習慣です。字が系列を示し、後継者、または一族の一員であることを明示する意図があったようです。
では佐々木の一族はどうでしょうか。
佐々木の一族は、遠くは宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏・源成頼の孫・佐々木経方を祖としています。鎌倉時代に本領の嫡流である信綱の死後、近江本領は4人の息子に分けて継がれ、長男の重綱が祖となる大原氏、次男の高信が祖となる高島氏、三男の泰綱が宗家となる六角氏と、四男の氏信が祖となる京極氏に一族4家体制となります。また高島家の分家として高信の三男が所領の朽木荘に因んで朽木氏を名乗り、京極家の分家として尼子郷を与えられた京極高久が尼子家を興しました。
「久」の字が見えた、室町時代前後に佐々木一族の系字が出そろいます。「綱」「高」「頼」「久」の4字です。宗家筋とされる六角家では近江甲賀流忍術を配下におく高頼や定頼が当主に名を連ねました。
さて遠祖の佐々木は、徳久と名乗りましたがそれはもしかすると武号ではなく、身分と出自を示す、系字だったのかもしれません。
私どもは遠祖に因んで佐々木の一族の系字をひとつ頂戴して、宗門の系字としていたようです。本家、分家にかかわらず佐々木の一族であることを示す系字が連綿と継続したように、武芸における「道統」の不変の証として、大先生が長久(ちょうきゅう)の意を示す「久」の字を用いたのでしょう。
謙久
2023年4月23日
知足常楽能忍自安
~2015年頃、相久の稽古メモより~
『 「知足」から、杖を三本購入し朝夕表を各四本づつ毎日稽古していると、新たな発見があり「常楽」のとおり楽しくなりました。
また、継続はやはり忍耐強くないと中断してしまいます。これが「能忍」で、次に「自安」から、稽古を継続するということは宗家である私の宿命であり、たとえ一人稽古であっても充実がなければ稽古が形骸化してしまいます。
この気持ちが判ると、自ずと心が穏やかになってきたように思いました。新たな取り込みと新しい三本の杖が、自我と自己を再構築へと導き、時空と共有することが重要と認識しました。
以上から本年から道場に、知足常楽能忍自安の掛軸を掲げました。 』
2022年にホームページを立ち上げてから、はや1年が過ぎようとしています。
過去の1年間では3世をはじめ、私どもにとっては不慣れな作業とチャレンジの連続でした。武道や身体操法が好きで集まった仲間が、気が付けば巷説や風聞に先達方々の名が埋もれないために過去の史料を探したり、きわめて私的な思い出でもある当時の写真や記念の品を探したりしました。
ホームページの当流の歩みの欄には、当時道場に出入りしていた方々が、ふっと懐かしく思えた時に立ち戻れるよう、なるべく名前を網羅して残すように努力しています。
かつて旧本部道場の一面に掲げられていた、名札のように。
身体の動かし方について
身体駆動について、「見せるについて-本物とは何かを考える(2004年12月1日)野川栄一」から内容の一部を抜粋し論を展開します。
「技の成り立ちに合わせた身体の動かし方」とは、「自分の自然に動く身体の動かし方ではなく、自然には動かない身体を、技の展開に合わせ、技のあるべき展開に沿うように身体を動かすことである。人間には自我が備わっている。この自我(意識)を制御し、自我を超えた先の自己、この自己(意識と無意識)を信じて(味方につけて)、技を自分の身体に染み込ませるのである。技の徹底的な反復稽古によって、古の武術家から脈々と受け継がれた技は“本物”の技となって、自分自身の身体に備わるのである。」
日々の稽古を重ねたうえで演武会に臨む場合であっても、「演武会の技と日々の稽古の技は同じ」ではありません。二つの技の決定的な違いは、技を見てもらうという自我が強く働く技か、技に向き合って技の展開を強く意識する技かどうか、です。「古流武術の範疇に入る武術において、技の優先度をどちらにするかで武術の方向は全く異なる。」のです。武術の効用を「現代社会を生き抜く知恵」とするならば、「日々の稽古を重視している古流武術」がその役割を多く担っていると考えています。
相久 令和五年二月
技について
技について考えていた折、この思いに合致する文章があったことを思い出しました。これは「コーチングについて考える-実践コーチングのヒント(2005年6月1日)野川栄一」で、内容の一部を抜粋します。
「技は、基本の技、応用の技、極意の技等さまざまに分類できます。技を練り上げていくことは必然的なものといえます。しかし、受け継いだ技を個人レベルで練り上げ、受け継いだ技そのものの存在が消えてしまうような事態は避けなければならないと私は考えています。基本の技は基本として、永遠に存続し続けなければなりません。技は技としてのアイデンティティーがあります。技の展開法は各人のレベルによって異なるだけで、技は技なのです。松栄塾(松栄館の前身)としての稽古姿勢は稽古相手を大事にし、技を技本来の展開する法に則り、身体を技に適した運用で、技の効果を最大限に発揮させるための稽古を実践し、身体操法の研究を怠らないということです。」
相久 令和五年一月
歳寒の松柏
本日は二十四節気でいう「大雪」の日です。新しい年の準備をはじめる「正月事始め」は、昔はこの時期から行われるようです。
三世と石久先生が稽古中に当流の歴史につながる懐かしい発見があり、画像をシェアして頂きました。
当流は公けの場で、胴着を着衣した時は胸に「松道流」のワッペンか、シンボルマークをつける習わしです。一方で平服時では、バッジを付けるようにしています。
大先生の時代では「道」の一字を掲げて、松の葉で縁取りする銅素地の、無骨なデザインのバッジを用いました。画像のバッジは二世・武久先生の旧蔵です。製作の年次はもう、定かではありません。
三世は瀬戸物愛好家でもあり、大先生のデザインされたものを守りつつ、焼き物の発色を生かして、青地に金色に輝く松の葉三本で「松道」の二文字を守るデザインをされました。
雪中松柏という熟語があります。ご存じ松やかしわは寒さの厳しい、雪の中でも緑の葉の色を変えずにいることから、時代の流れや周囲に変化があっても、節操や内なる本懐を変えない人を例えたものです。
2023年も、松の道を堅持したいものです。
大雪の日にて
謙久 拝
追記:
石久先生よりうれしいサプライズがありました。2世が晩年の資料整理時に突如、居合わせた門弟に与えたバッジを寄贈して下さいました。ある水曜の稽古後に石久先生ほか、松永さん等も記念にもらったようです。当時の担当師範である3世は昔、大先生からもらったと思われたらしくその場ではもらえませんでした。
三世の追憶では、大先生と繁久先生が東京でイベントがあったときにスーツで出向かれ、鈴田さん(繁久)が流派のバッジをつけてきたそうです。
バッジは今日もいぶし銀色に輝いています。
当流の先輩方の思い出②
真間嘉人道久さん
真間さんは幼少の頃に松武館に入門された方で、大先生(兼久)に可愛がられた先輩です。大学時代には空手部主将として活躍され、武号を授与された後に武真会館を設立され独立されました。真間さんが武号を授与され、お祝いの席が東京で開催された時、招待を受けた大先生をはじめ数名(鈴田さん、山本さん、正木さんなど)の先輩方と私は出席しました。
十年ほど前、尚樹さんから突然「今真間さんが松武館に来ていて、私(野川)に聞きたいことがあるので真間さんに変わります」と電話がありました。真間さんの聞きたいこととは、『弟子の問いで「ホームページを開設している方は先生の先輩ですか」と尋ねられたが、私(真間)は「全く知らない方なので詳細を聞きたい」』との内容でした。私はその方の詳細をご説明したところ、真間さんは納得されました。
また、別の機会に尚樹さんから、「真間さんが大会で平塚に来ており今松武館にいるので電話を変ります」と電話が掛かってきました。真間さんから、「大会が終わったら平塚で会えないか」というお誘いの電話でした。ちょうど当日は東京に行く用事があったため丁重にお断りの説明をしました。松道流護身武道を継承しておりましたので、その旨を真間さんにご報告したところ、真間さんから「安心しました」と言っていただき、私はほっとしたことをはっきり覚えております。
あの時、大先生のお通夜の席で、大先生について語られた真間さんから「大先生は六十代でもとんぼをきっていた」、「凄かった」という言葉が今も印象に残っています。
相久 令和四年十一月
当流の先輩方の思い出①
鈴田芳雄繁久さん
鈴田さんには基本技から応用技まで広く教えていただきました。天之巻上段之位を連続で仕掛ける稽古は特に印象に残っております。また、松道流本部道場から武久先生と繁久先生をお招きした記念演武大会の折、繁久先生から、「重要な話があるので武久先生のもとに行くように」と言われました。武久先生にお会いし話を伺うと、「本部道場への復帰要請」でした。その後、武久先生が私の職場に二回来られ、復帰を督促されたことから、同僚の冨田さんと共に平成15年9月、松道流松武館に復帰しました。私の松道流松武館道場への復帰は、「繁久先生のお導きである」と信じております。
山本弘典久さん、斎藤謙三さん
山本さんは私の職場の大先輩です。五十歳を超えた山本さんは、ニコニコと物腰も低く温和な方でした。しかし、若い頃の山本さんを知る方々からは暴れん坊というイメージが今でも定着しておりました。
斎藤さんは身近な方で、よく私に稽古をつけてくれた先輩です。腕っ節を自慢される力自慢でした。また、大学の先輩で親しかった高倉健さんについて、「健さんは本当に良い人だ」といつも話されていました。
暴れん坊の山本さんと力自慢の斎藤さんが隠し武器の演武で大会に行くことになりました。仕手山本さん、受手斎藤さんと役割を決め、道場稽古が始まりました。稽古は激しいものとなり、「手首が折れるのでは」と皆が心配するなか二人は平然としていました。当日の演武は壮絶なものとなりました。
佐江衆一さん
佐江さんは横浜ストリートライフ、老熟家族、黄落などの作品を世に出した作家の方です。昭和56年3月、松武館に見学に行った折、大先生(兼久)からうちの道場には有名な作家の先生がいると嬉しそうに話されました。昭和56年4月に入門すると、程なくして佐江さんと対面することになりました。卓球台を折りたたんで収納する一角に長椅子があり、そこで煙草を一服しながら稽古風景を見ている方が佐江さんでした。軽くあいさつし、私は柔術、佐江さんは杖術の稽古になりました。何年か後、横浜の寿町に取材に行くので護身術を教えてほしいと言われ、一か月ほど集中的に稽古をしました。取材終了後、「護身術は役立った」と言っていただきました。この時の取材作品が「横浜ストリートライフ」です。
相久 令和4年10月
師手ということ
3世宗家・相久が若手の頃、大先生はいつも「上段者と初心者」の話をしておられたそうです。
曰く「上段者とは初心者にやる気を出させ、長続きさせられる者であって、ワザがうまいとか稽古年齢があるだけで上段者になれるものではありません。古い者でも上段者ではなく、初心者の者もおります」という内容です。
当時、70歳を超えた大先生が体術を指導されるときは、まずワザを披露されます。次に大部分の時間を大先生はワザを掛けるのではなく、弟子にワザを掛けさせることに費やされました。
そのとき大先生は「まだまだ」というのが口癖でした。
関節を極めるワザにおいて、しなるような柔軟性は、大先生の腕にも腰にも足にも首にもありませんでした。
それでも「まだまだ」と気合いをかけてくださいました。20代の青年の相久が70代の老先生を心の底から敬服する稽古の一幕でした。
平成11年、相久の回顧より抜粋
見学ということ
ワザの向上にとって、他人のワザを見ることは重要であり大いに役立つ。おのれのワザは自れの感性がとらえ直接的であるのに対し、見学することにより間接的にワザを研究できるからである。ただ単に、ワザが極まる、掛かるというのを見るのではなく、相対する人に対し、いかなる行動をとるかを熟視するのである。見た目に悪い見栄えのしないワザは、やはり極まりワザとは言い難く、真に美しいワザ、すなおなワザが見学の対象であるが、逆のワザもまた手本にできるのである。
自れのワザの動きは、多くなく、少なくなく、大きくなく、小さくない無駄を省いた無理のないものをめざす。
平成初期、相久の稽古メモより抜粋
この道、五十年。
大先生(松道流初代宗家)との思い出です。
私が入門(昭和56年4月)してから、先輩方より主に大先生に稽古をつけて頂きました。しばらくは、気づきませんでしたが、大先生は、手首の骨が太く、またその箇所に太く長い毛が多く生えていました。
後でわかったことですが、松道流は、手首をつかまれる技が多く、常に手首に刺激があり、そのことで毛が太く長くなります。骨も然りです。
稽古をしっかりしている人はそうなります。私も以前はそうでしたが、稽古をさぼると自然に元に戻ります。自戒しなければなりません。
冨田石久 令和4年09月
稽古と実生活
先日3世と尚樹さんとの思い出を語りました。
尚樹さんは大先生のお孫さんで若先生(2世)のご長男です。3世よりいくつか年下で、高校生の頃にはよく旧本部道場で稽古されたそうです。大先生からは年の近い3世に「尚樹のこと、頼むよ」と声掛けされたそうです。
実は尚樹さんが亡くなるまで、私とは不仲でした。
原因を振り返ると、私の実生活の慢心が稽古仲間への慢心に直結したことが分かりました。自省の意を込めて稽古メモとして残します。
もう10年近く前になるのでしょうか。若先生が心臓を患い、旧本部道場はというと借地権で、大家さんから立ち退き交渉をされていました。
私は海外出張中に人伝いで「道場がなくなる」と端的な情報が入り、子供の頃からの思い出の場所でかつ、当時は家を持っていなかったため「それなら僕が引き取りたい」と反射的に言いました。
直後に、出張中でも毎週のように稽古内容をメール相談していた3世から、過去15年間にないぐらい、厳しいことばで注意され、大いに驚きました。
帰国後ゆくゆく伺うと、すでに実生活で松本家としてはライフプランを組んでおり、ドサクサ紛れて看板やら免状やらを画策する輩の一味に私が加担したと、尚樹さんに思われたそうです。
その頃、私の実生活というと、初めて部門を持つ立場となり、年上の方を部下に持つ形になりました。外資で管理と実績の両方が求められ、馬車馬のように動きながら相手には、詰寄る言い方で接する場面もありました。
生意気な言い方をすると、知らず知らず「慢心」が生じた頃です。
尚樹さんと関係修復することなく数年後、若先生が亡くなられました。
ご霊前に手を合わせに行くタイミングで、またもや「慢心」による無作法が重なります。
ご霊前に備わるべき品を、あろうことが尚樹さんに手渡ししてしまったのです。さすがに尚樹さんもいたたまれなくなり、若先生の遺影を指して私に「知っているのですか?」と聞いたのです。
私が実生活で初めて社の経営陣に加わり、意気軒昂していた頃でした。一方あとで知ったのですが、尚樹さんは難病を患い、余命いくばくない体だったのです。
尚樹さんの訃報が届いたのは1年弱後でした。
私は印可後、他の芸事をゼロから習いはじめました。さっそく無作法があり大恥をかいたことを3世に話すと、子供の頃の尚樹さんと、子供の頃の私の両方を知る3世から、上の事例を淡々と話してくれました。
ご自身の現職時代のことを事例に加え「実生活がうまくいき、修養が伴ってこないと、慢心が生じ、稽古相手に対する気遣いもできなくなる」と諭してくれました。
「ごめんなさい僕の勘違いでした」と詫びたい相手が他界してしまってから、気が付くこともあります。
慢心が続くといよいよ「オレが、オレが」の「我」の世界で「かたく」なり、実生活でも稽古においてもワザの進化と広がりがなくなる、ということです。
これは尚樹さんが教えてくれたことでもあります。
尚樹さんもどこかで見てくれていると嬉しいのですが。
中秋の名月に故人を偲んで
謙久 拝
尚樹さんの思い
ある日のこと、
門人と稽古していたところ、尚樹さんに呼ばれ奥座敷に通されました。尚樹さんから、借地権のこと、健康のこと、おじいさんの武道を残したいという思い、の3点を伺いました。そこで「おじいさんの武道を絶やしたくないので協力をお願いします」との申し出がありました。私は間髪を入れず尚樹さんの申し出を承諾しました。この申し出を成就する為、その後同僚の冨田氏と協議を重ねておりました。
一年程経った頃、若先生(武久先生)から借地権絡みで道場の閉鎖が伝えられました。道場閉鎖が現実となった折、冨田氏から「道場を建てたら」との提案があり、現在の松栄館道場が出来上がりました。また「おじいさんの武道を絶やしたく無いという尚樹さんの強い思い」が、松道流護身武道三世宗家として私は導かれました。
現在、松栄館道場には三人の幹部がおります。三人全員が大先生(兼久先生)から指導を受けております。尚樹さんの「おじいさんの武道を絶やしたく無い」という思いを胸に、私たちは松道流に伝わる独特の息吹きを感じつつ日々稽古に励んでおります。
相久
「兼相先生の思い出」より~
武石兼相先生は茨城県水戸市勝田村の方で、明治四十一年より日暮里にて道場を開き、次に蒲田駅の南側に道場を建てられました。(中略)昭和二十年に道場開散、平塚市にて松道流松武館として兼相流を受け継いでおります。(中略)
兼相先生の一番尊敬して居られた方は無比流十世 小松崎兵庫業求 先生でした。
兼相先生の小さい頃、この方の果し合いを木のかげにかくれて見ていたそうです。小松崎先生は座布団を頭上にしばり川原で刀を持った男と相対し、小松崎先生は杖。双方のするどい気合がかかった時は相手は血へどを吐いて絶命。兼相先生はそれを見て震えが止まらなかったそうです。(以降、略)
1988年11月
松本 貢兼久