流派継承とその流派を育てる館(やかた)

流派継承とその流派を育てる館(やかた)

1 若先生(武久)の思い

 松道流の継承式直前、若先生は私に「松道流は松本家そのもの」、「よって継承は行わない」と強く云われた。私は「はい」と答えた。「ほんのちょっと前まで若先生は継承を認めていたのに」と不思議に思った。理由は直ぐに、若先生の「不安を煽った者の存在」であると判明した。

 その後、若先生のお気持ちに変化があり、私は松道流護身武道三世宗家として継承を許された。

 松武館の閉鎖に伴い、道場を創設する運びになった旨若先生にお伝えしたところ、若先生から「道場名は松武館ではないでしょうね」と強い口調の問い掛けがあった。道場名は「松栄館」ですと答えると、若先生は安心された。その時、「松道流」と「松武館」の合体が「松本家」そのものであると理解した。

2 尚樹(貢久)さんの思い 

 ある時、大先生(兼久)のお孫さんの尚樹さんから、「おじいさんの武道を騙っている者がいる、看板を外させるので同行して欲しい」と連絡があった。私は同行を承諾した。大先生は兼相先生の「勝武館」で武道を学ばれ、兼相先生が亡き後は兼相先生の奥方と稽古を継続された。

 奥方が帰郷し勝武館を再開させたいとの思いに遠慮して、平塚に移り住んだ大先生は松が密集する地で、松武館を創設し流派を松道流とした。道場を建てる際には、「勝武館」を名乗らず「松武館」とし、流派名は「兼相流」の名称を遠慮し「松道流」を名乗られた。

 尚樹さんが云われた「おじいさんの武道」とは、「松武館=勝武館」と「松道流=兼相流」で構成される「松本家」そのもので、大先生の息子さんとお孫さんの心情の一致を、私は実感した。尚樹さんと同行する予定の行動は、尚樹さんの病気の進行で行くことは無かった。

3 私(相久)の思い

 私の思いは、「松道流護身武道」と「松栄館」が一体となった姿で「100周年を迎えること」です。その思いを実現させるには、改めて「館員心得」を読み解く心の醸成が必要であると思った。「習いたる わざをみだりに表すな 己が命の瀬戸際にせよ」の文言を原則に置き、新たに「公(おおやけ)」の心法を加味する。武道の本来の目的、それは我々の武道に伝わる伝統に裏打ちされた「型」と「技」から得る英知であり、良き社会づくりを可能にする心法を醸成する。その先に恒久的な世界平和の実現へと繋げたい。「日々の稽古の継続」を第一歩として、淡々と歩んで行きたい。

  松道流護身武道松栄館 三世宗家 野川栄一相久

                令和七年一月吉日

松道流 護身武道 松栄館

当流HPをご覧いただき、ありがとうございます。 当流は昭和18年、旧水戸藩士・武石謙太郎兼相居士の弟子・松本貢兼久が無比流、浅山一伝流、兼相流等諸術を総じて創設しました。身体操法の振り返りにより、日本古来のエッセンスを身につけ、実生活での向上を目指しています。