節目の年にて


令和5年は、当流にとって様々な意味で、節目の年にあたります。

 当流の祖師の一人・遠祖の佐々木哲斎徳久が「無始無終」の悟りを得て、流派を開いたのは慶長8年(1603年)頃とする説があり、史実であればちょうど今から420年前にあたります。

 当流の祖師の一人・遠祖の浅山一伝斎重晨が霊夢により開眼し、流派を開いたのは天正16年(1588年)頃とされる説があり、史実であればちょうど今から435年前にあたります。

 当流の祖師の一人・近祖の兼相先生が館号を勝武館(しょうぶかん)と定め、道場を開設したのは明治41年(1908年)です。ちょうど今から115年前にあたります。

 

 そして、当流は大先生が館号を松武館(しょうぶかん)と定め、3つの流れを一つの名称にまとめた昭和18年(1943年)に創始されました。ちょうど今から80年前にあたります。

 

 このほか、新本部道場「松栄館」設立10周年、成都稽古会設立5周年の節目の年でもあります。私事ながら、入門25年目の節目でもあります。

 節目の年も、教示する稽古を続けていますと様々な質問を受けます。なかには、考えたこともないような質問もあり、その場では言葉を詰まらせ、ゆくゆく精査したものもあります。

 代表的な難問をひとつ紹介すると「松道流とはなにか」と問われたことがあります。

 とっさに答えたのは「400年間蓄積された3つの流れの先人の集合知を伝える場所」でした。松道流はかつて「松道流」と「松武館」がワンセットになっていたからです。意味を精査すると「3つの流派の略称」と「伝える場所」になるかと思います。3世に聞くとやはり時代の変遷を語られ、しかし結論は「松道流は略称だが、松武館は松本家」の一言でした。

 旧本部道場に付随するように、大先生、若先生、若先生のお子さんたち、お孫さんの住居が据えられてあったのです。住居に付随する道場、ではなく道場にくっついたような家でした。殆ど家伝に近い地域伝のかたちで、松道流がつたわってきたのです。

 巷では「古伝〇流派を伝える●●館」のイメージが定着しているかもしれませんが当流の場合は、〇流派をひとつの略称「松道流」にまとめ、●●館は家でもあるため、館号は属人的なものだったのです。

 従いまして「松道流とはなにか」という問いに対し、今思えば「大先生というフィルターを通して伝わった古伝3流派の略称」というのは誤りで、正しくは「大先生、若先生を含めた先人の集合知(ワザ)を体現した古伝3流派や創意工夫されたカタの総称」と改めて思う、この頃です。

 3世とこないだ大先生の最晩年の剣について、議論したことがあります。大先生の最晩年のいわば変化カタを厳守したい3世に対し、僕は大先生の剣のカタも、2世の剣のカタも、3世のカタも、同じ体の使い方の流れにあれば、それぞれの表現形態に微細の違いがあっても良いのでは、と進言しました。

 もちろん帰り道には3世の変化カタも、メモに残しました。

 大きな流れに乗じて一滴また一滴と、流れを変えることなく知のしずくを足していければと思います。

 令和5年寒露の夜にて

 謙久

松道流 護身武道 松栄館

当流HPをご覧いただき、ありがとうございます。 当流は昭和18年、旧水戸藩士・武石謙太郎兼相居士の弟子・松本貢兼久が無比流、浅山一伝流、兼相流等諸術を総じて創設しました。身体操法の振り返りにより、日本古来のエッセンスを身につけ、実生活での向上を目指しています。