先日3世と尚樹さんとの思い出を語りました。
尚樹さんは大先生のお孫さんで若先生(2世)のご長男です。3世よりいくつか年下で、高校生の頃にはよく旧本部道場で稽古されたそうです。大先生からは年の近い3世に「尚樹のこと、頼むよ」と声掛けされたそうです。
実は尚樹さんが亡くなるまで、私とは不仲でした。
原因を振り返ると、私の実生活の慢心が稽古仲間への慢心に直結したことが分かりました。自省の意を込めて稽古メモとして残します。
もう10年近く前になるのでしょうか。若先生が心臓を患い、旧本部道場はというと借地権で、大家さんから立ち退き交渉をされていました。
私は海外出張中に人伝いで「道場がなくなる」と端的な情報が入り、子供の頃からの思い出の場所でかつ、当時は家を持っていなかったため「それなら僕が引き取りたい」と反射的に言いました。
直後に、出張中でも毎週のように稽古内容をメール相談していた3世から、過去15年間にないぐらい、厳しいことばで注意され、大いに驚きました。
帰国後ゆくゆく伺うと、すでに実生活で松本家としてはライフプランを組んでおり、ドサクサ紛れて看板やら免状やらを画策する輩の一味に私が加担したと、尚樹さんに思われたそうです。
その頃、私の実生活というと、初めて部門を持つ立場となり、年上の方を部下に持つ形になりました。外資で管理と実績の両方が求められ、馬車馬のように動きながら相手には、詰寄る言い方で接する場面もありました。
生意気な言い方をすると、知らず知らず「慢心」が生じた頃です。
尚樹さんと関係修復することなく数年後、若先生が亡くなられました。
ご霊前に手を合わせに行くタイミングで、またもや「慢心」による無作法が重なります。
ご霊前に備わるべき品を、あろうことが尚樹さんに手渡ししてしまったのです。さすがに尚樹さんもいたたまれなくなり、若先生の遺影を指して私に「知っているのですか?」と聞いたのです。
私が実生活で初めて社の経営陣に加わり、意気軒昂していた頃でした。一方あとで知ったのですが、尚樹さんは難病を患い、余命いくばくない体だったのです。
尚樹さんの訃報が届いたのは1年弱後でした。
私は印可後、他の芸事をゼロから習いはじめました。さっそく無作法があり大恥をかいたことを3世に話すと、子供の頃の尚樹さんと、子供の頃の私の両方を知る3世から、上の事例を淡々と話してくれました。
ご自身の現職時代のことを事例に加え「実生活がうまくいき、修養が伴ってこないと、慢心が生じ、稽古相手に対する気遣いもできなくなる」と諭してくれました。
「ごめんなさい僕の勘違いでした」と詫びたい相手が他界してしまってから、気が付くこともあります。
慢心が続くといよいよ「オレが、オレが」の「我」の世界で「かたく」なり、実生活でも稽古においてもワザの進化と広がりがなくなる、ということです。
これは尚樹さんが教えてくれたことでもあります。
尚樹さんもどこかで見てくれていると嬉しいのですが。
中秋の名月に故人を偲んで
謙久 拝
松道流 護身武道 松栄館
当流HPをご覧いただき、ありがとうございます。 当流は昭和18年、旧水戸藩士・武石謙太郎兼相居士の弟子・松本貢兼久が無比流、浅山一伝流、兼相流等諸術を総じて創設しました。身体操法の振り返りにより、日本古来のエッセンスを身につけ、実生活での向上を目指しています。
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